よく考えてみたら。
このブログはタイトルも「Sexual education」つまり性教育が本題。
だけど…今のところただのメンヘラブログになり替わってるよね。
そういうご指摘が届きそうだよねww
それっぽい記事をライティングしてみます。
ただ、ありきたりのセックスのハウツーなんかじゃ面白くもないから。
官能小説家・前田穂花らしく??
全く違う切り口でセマりたいと思います。
本番は11月、まだ2ヶ月以上先の話なのに。
夏休みのうちに七五三の前撮りをされているお子さん、かなりいらっしゃいますね。
単純にかわいくていいと思います。
穂花はバツ2ですが…子どもを産んだことはありません。
知人のお子さんが慣れないきものでフラフラしている姿もまたいいですし、
決めポージングでファインダーに収まっている得意げな表情も、
この時期だけを切り取ったキラキラ感に溢れていて、
おかあさんやおとうさんもそれまでの子育ての苦労が、
わが子の晴れ姿に一瞬吹っ飛ぶのではないか…と、そう思って眺めています。
そんな穂花も和服、つまりきものがかなり好きです。
きものと帯、独特の柄合わせとか面白くてたまんないの。
四季がある日本ならではの季節感が、
きものだからこそ出せたりもするし。
着付けは我流で覚えました。大体のものはひとりで着られます。
娘っぽい小紋もいっぱい押し入れに入っているので…。
もうこの際トシも超越したいし、
デブっても着付け次第でどーとでもなることもきものの強み。
この次の冬にはとりあえず片っ端から袷のきものに袖を通すことにします。
ただ、一点だけモンダイが!!
…皆さん、余りお気づきにならないんだけれど、車椅子に乗ってるとね。
きものの袖が邪魔なせいで自走出来ない…穂花ちゃん、現在真剣に悩み中。
我と思わん方は是非穂花ちゃんの車椅子を押す専門の「彼氏」として、
エントリーしてね!…なんちゃって。
まあ、そんなきものにはちょっとヲタな穂花ちゃんは。
こんな感覚で七五三を迎えた女の子を眺めたりもしていますよ。
本当にどーでもいい余談…かも知れないけど。
…きものというのは袖の長さだけでなく、
衣紋掛けに掛けた際の柄の配置でも格や用途が異なってきます。
未婚女性の正装としての振袖であれば、
「辻が花」という柄配置が正式なものになります。
よく「辻が花調」とかいうけど、本物は現在では手に入らないんじゃないかな。
本来「辻が花」はきものの生地、つまり反物のの染め折りの技法。
以下コピペ。
室町・桃山時代の、小袖や胴服などに見られる縫い絞りを主体とした模様染めを、現代では「辻が花」と称しています。
とにかくね。そういう地模様のある反物に、
花や草木をモチーフにした柄を描いて。
衣紋掛けに掛けた際、
背中から見て辻=十文字に柄配置を施すのが現在の「辻が花調」の和服。
*穂花の勝手な解釈です。
もし間違い等ありましたらご指摘ください。
辻が花って染め織り自体、室町時代のままに再現出来る職人さんはいないとされているけど、
実際に纏う人の身長にあわせて…仕立て上がりが十文字に柄が合うように、
それっぽく仕立てることもすごい技術を要するから。
だから…花や草木というモチーフ自体は普段着感覚のものなんだけど、
「辻が花調」は手間がかかる仕立て方ゆえに、
振袖…まるで可憐な花のように匂い立つ未婚女性のための、
一番格式の高い礼装用の柄に使用されているのです。
いっぽう、七五三7歳女の子のきものの柄は、
きものの袖の長さは振袖になっていても柄配置は色打掛様になります。
参考。実際に穂花が47歳!の時、
色打掛様の柄配置の振袖を纏った姿です。
…十三参り用の女の子の二尺袖も本来はそう。
今は小学校の卒業式の女の子も袴だったりするから、
まるでかつての短大生みたく矢絣の小紋の二尺袖だったりするけど。
本来は数え13歳になった=生理が始まった。
子どもが産める身体になって結婚できるようになったという意味だから、
あなたもちゃんとおとなの女性の仲間入りをしたんだよ、おめでとう…と、
花嫁衣装と同じ模様のきものを着せて女の子の成長を祝うのです。
7歳のお祝いだって…あなたはこれからだんだん女の子の身体になっていくから、
迂闊な心持のまま男の子とちゃらちゃらしないんだよ、
いつかおかあさんになる自分のカラダを大切にするんだよという意味も含めて、
花嫁さんの衣装を着せるって意味があるんだって。
…みんな好きで楽しくやっているからこそ、
ちゃんと商業ベースにノッているわけなんだし。
そこに水を注す意図は一切ないけど…単純に穂花的な感覚として。
クリスマスだのバレンタインだの…。
そういうくだらないひたすらカネだけがかかる風習はバカげているよね。
その点、日本に昔からあるお祝いって、
意味がきちんとあって本当におめでたくていいよね。
そう痛感します。
そういうことを思う時。
きっと、子どもの成長を祝うことってそっくりそのまま、
自分のカラダを大切にすることを言葉ではなく、
もっと見える形で次の世代に示していくことなんだよ。
性を知るってことはつまり、
本来は自分を愛する方法を学ぶこと。
自分を愛せなければ、いつか出会う大切な誰かのことも守れたりはしないから。
子どもさんの愛らしい晴れ着姿を遠くに眺めながら、
穂花はこう想いを馳せています。
時折、こんなかたちで、
タブーとして隠したりしない性の話をお伝えしたいと、そう希っています。
本来、愛し合う営みは不潔なものでも隠さなければならないものでもなく、
ましてやセンセーショナルなものなんかでもありません。
性は生、すなわちいのちを紡ぐこと。
そんな穂花のひとりごとに今後もどうぞお付き合いください。
前田穂花
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