ライティングの合間に。
いつもお世話になっている「日本の食料を考える百姓」。
報徳佐野農園(秋田県南秋田郡)の佐野繁彦さんにお便りを書きました。
*何だか眠たそうな穂花。葛西臨海公園で。
拝啓
仕事柄、日々昼夜逆転気味の私。
本日は昼間所用が立て込んでおり、そのためさっさと休むつもりでしたが、一度身に付いた人間の習慣というものは恐ろしいもの。
いきなり当たり前に夜眠ろうと思っても…一睡も出来ず布団のなかで悶々。
諦めて普段通り原稿を書き…朝が来ました。
まあ、へいちゃらな顔をして、へいちゃらな素振りを貫いて一日過ごします。
仕事です、つらそうな表情なんてしてはプロとは言えないので。
しかし。本当に身についた習慣は簡単には改められないものだと改めて悟りました。
日々の食生活も同じだろうと思います。
今はやたらと「食育」ブーム。ただ…ブームであることが私には怖い。
なぜなら、単なるブームである以上…それは一過性の「流行」で終わってしまうことが懸念されるから。
私は、食べ物を考えることは「いのち」を考えることに等しいと思っています。人間はほかの生命を犠牲にすることでしか自身を維持出来ません。
だから…せっかく子どもたちに食べることの重要さを教えるんだとしたら、私は同時にいのちの問題をも触れなければいけないと、そう思っています。
お米の問題、屠殺の問題(あくまでも人間はほかのいのちを「殺す」ことでしか「食べる」ことが出来ないんだと徹底したいです)農業の後継者問題…食の問題の周囲には、本当に難しいテーマが絡みついています。
そういうことを無視した単なる栄養的な側面だけの食育であれば、何か肝心な部分が欠落しているように私は感じます。
*ガチですっぴんの穂花。
ご存じのとおり、農業を英語でagriculturalといいます。
農業という言葉からcultureつまり「文化」という言葉が派生したのはすごく意味があることだと思います。
さらに。agriは「実り」という意とともに「屠殺」=命を奪うという意味があるのだと私は授業で学びました。
私の本名は「みのり」です。すごく自分の名前の意味だとか…いのちって本当は何だろうと思った記憶があります。
…話が逸れましたが「実り」=豊穣を願う裏に「他の生命を奪う」文化が農業であり、食の問題の本質です。
そこを省いた上っ面な「食育」に大した意味があるとは私には思えない。
ほかのいのちを犠牲にするからこそ、食事は残してはいけない。食べ物は粗末にしてはいけない。食事の時間はテレビは消し、ゲームをしながら、スマホを弄りながら…といった「ながら食い」を慎まなければいけない。
そういう一つひとつを日々の生活の中で示していくことこそ真の食育でしょう。
そう考えつつ生活すれば自然と、自分の食生活を顧みつつ、栄養的な問題についても、美食に走らず粗食で、それでも心を傾けて食事を用意する…そういう態度は養われていくように自身のこれまでを鑑みて感じています。
私は自閉症ゆえに、幼少期、一定の食べ物に対するこだわりが非常に強くて、それで激しい偏食がありました。
何かしらの食べ物が嫌いだということでは決してなくて、ある食べ物に固執しすぎているせいで、ほかのものが「食べ物」だと思えなかったのです。
一般的に自閉症者の偏食は直せないとされています。それが「障害」だからです。
しかしながら、成人した今、私には一切の偏食はなく、嫌いな食べ物、苦手で食べられないものは本当に一つもありません。
アレルギーがひどいので、体調が悪い時期は避けたいもの…というのはありますが、食べられないというわけではありません。嫌いなものは本当に何一つありません。
…偏食傾向があるという自身の「障害」を理解した際に、私は考え方を改めて、特定の食べ物にこだわることなく、出されたものはすべて感謝して食べようと思うよう心がけました。
結果、おとなになった今は皆さんがびっくりされるほど苦手な食べ物などない私です。
自閉症は「障害」であり、どの自閉症者でも私のように改善出来るということでは決してありません。
ただ自閉症=発達障害だと診断されても、それは発達のスピードが一般の人と違うというだけで、どんな人でも「発達」自体は可能です。ただゆっくりだというだけ。
だから…本人が変わりたいと願い、療育する方々が単なる障害児扱いするのではなく、どんな子でも成長する、進歩する、変化し得る…と心得てくだされば、私のような人間でも改められるのです。
話が脱線しまくりですが、そういう部分も踏まえたうえでの総合的な「食育」に対する考えが社会にもっと浸透してほしい、強く希います。
食を学ぶことは、いのちを知ること、さらには生きることを学ぶことに繋がるのだから。
そういうベースの上にコメの問題を考える素地も構築されていくだろうと期待にも似た思いを抱く私です。
*しかも”寝ぐせの君”。BFクン(生身)に写メったらひと言「ダサダサ」。
まだ問題点が山積する「食育」ですが、私の時代にはパンと牛乳が主流だった学校給食は、今では「ご飯とお茶」という日本人らしい在り方に変化しつつあると聞きました。
ご飯主流の給食になってから、給食を残す子どもは激減し、学校にもよりますが平均で15~30パーセント残飯が削減出来たというデータもあります。日本人の味覚にはパンよりもお米のご飯が合うのだということを如実に示す話に思えます。
ご飯の給食はおいしい、ご飯には牛乳じゃなくてお茶を飲みたい。そう子どもたち自らが難しいことを考えるのではなく、彼らの体がそう要求するということはある意味農業への一種の「希望」なのかなとそう思っています。
ご飯がおいしいから、給食は残さない。だから残飯も減っていく…子どもたちの内なるところからご飯を食べたい、お米はおいしいと望む要求。
そこに私は日本の食の希望を見ます。
そこをベースに、いのちを考える教育というのは成り立たないのでしょうか。
いのちを考えれば…社会問題になっているいじめなどもかなり減らされるのではないかとも思います。いのちを尊重することは、相手を慮ることです。
その原点としてはやはり「人間はほかの生命を犠牲にすることでしか存続出来ない」というありふれた、しかしながらとても重いテーマがあるのだと私は感じています。
いのちを慮れば、いうまでもなく自分の生命も粗末には出来ないでしょう。自分につながる両親や祖父母…ずっとずっと遡る先祖のルーツ。
たかが食育、されど食育。
いのちを学ぶ根本は「食べることを思いやる」ことだと私は思うのです。
本当の豊かさって何だろう…私は繰り返しますが「みのり」です。
英語圏では「屠殺」の意も含む語源かも知れませんが、瑞穂の国では豊穣を願い、目的を達成する。そんな意味を含んだ名前だろうと捉えています。
だからこそ、真の豊かさを考え続けていたい。そんなことも思う毎日です。
私は無力であり、大した知恵も持ち合わせてはいません。
しかし、自分の生きる姿を言葉で発信することは出来ます。書く力を備えられたことに感謝しつつ、自分なりに心を尽くして生きていけますように。
秋田もきっと収穫の季節、東京の空の下より心から憶えています。
2016年9月28日
穂花 拝
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