わたしはいま、びょうきをしていてしごとができないので。
いつもよりもインターネットじょうのニュースをみて、
すごすじかんがおおくなっています。
きょうは。
こんなニュースをみました。
<いじめ>「被害者も悪い」小中3割 金沢市教委アンケート
毎日新聞 1/26(木) 17:15配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170126-00000059-mai-life
このきじ(記事)をよみながらわたしは。
わたしがこどもだったときのこと。
あるいはわたしがいきてきたこれまでのことときじのないようとを…
かさねあわせておもたいきもちになりました。
みなさんのようなこどもはてんしだと。
そうひょうげんするおとなはおおいけれども。
わたしはちがうとおもいます。
*リハビリでバイエルを弾く穂花
こどものせかいにも、そしておとなのしゃかいにも。
じぶんとちがうものをみさげてばかにするきもち、
みさげてばかにすることによってあんしんしたいとおもう…
そんなよわいこころはどこにでもかくれているものです。
あなたのなかにも、そしてわたしのこころのなかにも。
*あからさまに手つきや運指がおかしい。まあ、拘縮予防ね…
おおむかしのこと。
にんげんもちきゅうにあらわれたばかりのころは。
むれて(群れて)グループをなすことによって、
じぶんたちにんげんよりもつよいどうぶつから、
みをまもってくらしていました。
むれ(群れ)をなしてくらすうえでは。
むれというしゅうだんをくずしてしまうひとはのけもの(除者)にしないと、
ほかのどうぶつにおそわれてしんでしまうから。
それで…ちからのよわいひと、
ほかのひととおなじペースでこうどうできないひとは、
のけものにしたり、ときにはみごろしにしていました。
でないと、むれをなしているぜんいんがしんでしまいかねないから。
じぶんとちがうひとをのけものにすることは。
にんげんがどうぶつだったときのなごりです。
しかし。
やがてひとはことばをつかえるようになりました。
ことばをもつにんげんは、
かんがえかたがちがうひと、
ほかのひととはおなじうごきができないひと。
そういうあいてとも「はなしあう」ことで。
たとえなにかもんだいがおこったとしても、
「はなしあい」でかいけつできるようになりました。
だからこそ。 いじめはかっこわるいことなんだよ。
*ちょっとは…マシになってきたかなあ?
ちきゅうじょうのありとあらゆるもののうち。
にんげんだけがことばをもっているのです。
にんげんであれば、
もしもはらがたつあいて、
きにいらないあいてがいたとしても。
そのあいてときちんとはなしあうことによって、
おたがいがいちばんなっとくできるほうほうをみつけるべきなのです。
きにいらないやつだからいじめてしまえ。
それはわたしたちにんげんが、
にんげんであることをほうき(放棄)したのとおんなじ。
それでも。
ざんねんだけどにんげんがあつまっているばしょでは。
どんなしゅうだん(集団)であっても…
いじめというげんしょう(現象)はみうけられます。
じぶんとちがうものはのけものにしてしまえ。
じぶんよりよわいやつはさべつ(差別)してしまえ。
じぶんよりすぐれたにんげん、
じぶんよりとくをして、
しあわせそうにみえるやつのことはねたみそしり(妬み謗り)、
ひどいことばをつかってくるしめてやれ!
だれのこころにも。
そんなおもいはひそんでいるものです。
しかし。
さっきおはなししたとおり。
ひとはことばをもっているから。
どうぶつとちがってはなしあえることが、
にんげんのにんげんであるたった一つのしょうこ(証拠)だから。
だからこそ。 いじめたらいけないんだよ。
いじめているやつはかっこわるいんだよ。
*パソコンも今のところ右手オンリー…
そういうわたしも。
じぶんがいじめられることがこわくてほかのひとをいじめました。
あるともだちがみんなにいじめられていることをしっていても。
そのこのめのまえではみかたみたいなかおをしつつ、
いじめというじじつ(事実)があるにもかかわらず。
きづいていないふりをしつづけました。
――そういうわたしのようなたいどをとるにんげんのことを。
ぼうかんしゃ(傍観者)といいます。
そのこのことをちょくせついじめていなくて、
いかにもそのこのまえではともだちみたいなふりをしていても。
やっていることはいじめているのとおなじです。
いじめているのとおなじことなのにみつかりにくいというぶぶんで、
ぼうかんしゃのおこないはさらにずるいともいえます。
とにかく。そのこはがっこうをとちゅうでやめてしまいました。
*行くぞ!「片手タッチタイピング」!!
*しかし。いつのパソコンだよ?OSはかの”XP”だし…ww
わたしはもうすぐ50さいになりますが。
これまでにいじめでなやみくるしんで、
じぶんでいのちをたってしまったともだち。
だれにもいえなくてじさつ(自殺)してしまったひとを、
なんにんもみてきました。
びょうきやじこがげんいんでなくなった、
しりあいのかずとかわらないにんずうのひとたちが、
みずからしんでしまうすがたをまのあたりにしてきました。
わたしがはじめてじさつによってともだちをなくしたのは。
わたしが26さいのときです。
それからもう20ねんいじょうがたちますが。
しんでしまったともだちの、
おかあさんやおとうさんがないているすがたは。
いまでもこころにつきささってはなれません。
そのご。
しんでしまったともだちのおとうさんはびょうきになってしまい、
いちねんもたたないうちになくなりました。
おかあさんもねこんでしまいました。
*うちのパパとのラブラブショット。ただし手だけ…
わたしはおもいます。
ひとのいのちはちきゅうよりもおもたいけれども。
どうよう(同様)にひとはほんとうにあっけないくらいに、
かんたんにしんでしまうんだなあと。
いじめているほうは。
たんにおもしろはんぶんかもしれないし。
あるいはせんせいやおかあさん、おとうさんに、
いやなことをいわれて…
ふゆかい(不愉快)なきもちを、
いじめやすいあいてにぶつけて、
やつあたりしているだけなんだろうけど。
でも。
あいてはいじめられたとき…すでに。
こころをころされているのかもしれないよ。
ひとはほんとうにかんたんにしんでしまうものだよ。
そして…だれかをいじめているということは、
あいてをころしているのとおなじだよ。
あなたもときどきかんがえてみて。
まえだ ほのか
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- 真面目な性と生のはなし
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半魚人様
いつも拙サイト、およびブログに遊びに来てくださってありがとうございます。
穂花です。
おかげさまで。
脳梗塞を再症するも、次第に回復の途にあります。
ヤフーのニュースで「子どもの三割はいじめ被害者にも非がある」と考えていることを知り、
ショックだったの同時に…これが正直、
子どもだけではなくおとなにも共通する、
もうどうしようもできないくらいの素直な本音の部分だろうなあと感じて、
記事にしたくなりました。
私たち人間は他者の弱い部分を見、
相手より自分自身が優位に立つことによってしか、
心の安定を図れない存在です。
自分より「劣る」者を見下す気持ち。
自分より「優れた」者を妬み謗る心。
それらは誰の中にも存在します、当然私のなかにも。
しかし。
人間は唯一言葉を持ち、言葉を用いて、
冷静な判断を試みることができる存在でもあります。
本当のところ。いつまでも…「君と私は違う人間だ」という、
食い違いから生じる摩擦がなくなることは、
ないだろうと私は思います。
生きていくことは絶望でしかなく、
しかし絶望のどん底からでしか希望の光は見えないもの。
だから。
本当にいじめがなくなることはないだろうと思うのです。
ただ、それがいじめを正当化する言質にはなりえず、
まずはいじめというものの本質は何なのかということを、
考える習慣を持ってほしいと。
この記事の最後の言葉には私は想いを込めました。
子どもさん向けの記事としてライティングいたしましたが、
だからといって適当に書いたわけではなく、
むしろ平易な表現を用いつつも、言葉を選んで。
一番強調したい部分は何なのかを明確にしたつもりです。
時に人間は言葉によっていとも簡単に殺されてしまう存在だからこそ。
一人ひとりが本当に尊重される社会でありますように。
未来を担う子どもさんや、
社会の希望として存在する(べき)若い人たちが。
例えいじめがなくならないんだとしても、
常に自分自身の問題として考えてくださるように。
そのためにはおとなの意識もまた、
変わることが重要でしょう。
そういう想いを「おとな」のひとりとして、
これからも発信していけたらな。
今は病床でそう希っています。
穂花