残忍非道という言葉ではもはや表現し得ない、
あの相模原の事件から今日でちょうど一年が経ちました。
穂花的には何も解決していない気がする…
やり切れなさだけが残ったまんま。
犠牲になられた十九名の皆様に心からの哀悼の意を表します。
併せて。
お怪我をなされた方々。
施設建て替えの問題やそれにまつわる退所、別の受け入れ先を探して、
未だに落ち着かない日々を強いられていらっしゃる多くの方。
犯人の凶行によって、一晩のうちに予想すら出来ない…
これまでの日常とは全く違う人生を歩まざるを得ない…全ての関係者の皆様のために。
僭越ながら心よりお祈り申し上げます。
そのうえで。
事件は犯人の優生思想に基づく身勝手な犯行の内容に併せ、
私たち一人ひとりの心の闇に改めて気付かされる契機でもありました…
改めて「誰の心の中にも差別の念は潜んでいる」そうあからさまになった現実が。
触れること、話すことすらタブーだった本当のダークネスな部分が…
全て白日のもとに曝されたことこそが、
相模原事件の本当の怖さ。
――事件によって、私たちすべてが障害の有無に関わらず。
私たちの「無意識の世界」の奥の、
誰の心にも潜む「差別してしまう」感覚を、
今一度自分の心に問いかけざるを得ませんでした。
誤解を恐れず申し上げるならば、それはある意味「気付き」でした。
無意識のままに差別してしまう自分の存在を、
今一度自身の胸に問い直す作業を。
私たちは夏休みの宿題の如く…
いや、夏を過ぎても…一年に亘って胸の中で反芻しましたが。
重過ぎる課題を私たち全員が未だに解けないまま。
穂花も例に漏れず悩み考え続けています。
――穂花は自己肯定感が極めて低い気が自分でもしています。
本音ではいつもいつも「生きていて申し訳ない」と思ってしまいます…
幾らがんばっても、
自分は「普通」の人と同じようにはできないのだと。
生産的な活動に勤しめる能力が極めて低いのに…
自分の納税額以上に多額の公費によって賄われ支えられる自分の日常を、
穂花はいつも申し訳なく思っています。
その辺りは綺麗事や理屈では説明できないもやもや。
…穂花の実両親はなぜ、
胎児である我が子に障害があることをわかりながらも。
甘ったるいヒューマニズムのもと、この世に送り出したのかと…
恨みに近いくらい悪い感情を未だに払拭できません。
しかも。意外と多くの障害者が、
現実には穂花と同じようなことを口にしています。
真逆に。ハンディがあるということで権利ばかりを主張する、
いわゆる「障害者サマ」も社会には多く存在します。
常識的に考えてあからさまにずれまくった持論を展開しまくるのにも、
正直ウンザリしている穂花なのですが。
あの我儘な方々が「障害者を排除する社会との闘い」として、
ズレまくった言動を繰り返すのも。
「健常者と同じようにはできない」自分自身に対する、
自己否定感が根底にはあるのだと…
同じハンディキャップドの立場から穂花は強く感じています。
穂花と「障害者サマ」ご一同と。
一見主義主張や方向性が全く違うようであっても。
ベースは「障害を持つ自分」に対する限りなく低いセルフイメージ。
そう考える時に。
重い障害を抱えて生きている私たちであってもね。
本当はU容疑者と同じ残虐な行為を…
自らに、そして同じ立ち位置の障害者に…
まさに見えない刃を向けているんだよね。
本当はそれが一番怖く、
だけどどうしようもない人間としての業みたいなものなのかと…
穂花はずっと考え続けました。
自ら重い障害を負っているからこそ、安易に答えが導けません。
――口先だけならどんな正論でも語れるでしょう。
ただ、障害を持って生きることがどういう意味を持つのかわかるからこそ…
言えない(ダークな)部分もあるのです。
障害を持って生きることのつらさの要因について。
余り気付かれていないことですが。
障害者本人を日夜支え、介護する家族に対する支援が…
事実上何もないことも挙げられるかと思います。
家族であっても障害者を24時間常時介護するのは本当にしんどいのです。
だから…施設にお願いしなくてはならない状況も往々にしてあるのです。
本当に障害者本人と家族、文字通り共倒れしそうなケースも、
少なくはありません。
違う面から鑑みれば。
幾ら仕事だとはいえ、家族さえも持て余すほど、
向き合うのがしんどい重度心身障害者を。
福祉の、介護のプロとして支援し続ける現場の職員の労苦も、
想像を超えています。
自分で自分をコントロールできない利用者さんも少なくはありません。
しかし、職員でありプロである以上、
例え利用者に暴力や暴言を繰り返されても、
立場上泣き寝入りを強いられるのが職員のリアルです。
その現場で働く職員の努力と苦労に報いるほどの賃金や福利厚生なんて、
残念ながらほぼありません。
かつての施設職員は公務員もしくはそれに準ずる身分でしたが、
今は制度が変わりました。
最低レベルの時給で雇われ、酷使される施設職員は決して少なくありません。
U容疑者の主義主張はめちゃくちゃではあります。
ただ、彼がいかに厳しい職場で日夜心身をすり減らし続けていたか。
そして。
大半の若い施設職員はU容疑者と似たり寄ったりの職場環境にあって、
厳しい労働条件とハード過ぎる仕事内容とに、
夢も理想も希望も見失いつつあることも…想像に難くありません。
わざといやな表現をさせてください。
U容疑者の予備軍は水面下に幾らでも存在するのです。
家族等が自宅で障害者を介護するための、
金銭的な支援制度は多少ならあります。
ただ、それだって受給するためには厳しい審査がある上、
本当に重度の障害の方を支えるにはとても足りません…
家族がどれほど疲弊してしまっても、
介護をプロに丸投げできるほどの金額にはとても及びません。
さらに。
きょうだい児への就職や結婚や出産の際の差別、
成長後の障害児本人の激し過ぎる性的衝動と処理についての問題。
昔からいわれているところですが「親亡き後」の問題…
これらについては表立って語られることも殆んどありませんが。
実は家族を疲弊させ、家庭崩壊の原因に直結する…
痛々しい問題です。
表立って語れない微妙な問題だからこそ。
余計に当事者と周囲をつらく悲しくさせてしまうのです。
「障害者は周囲を不幸にさせるだけの存在」だと。
「生まれた子どもが障害児なら人生が終了」「障害児を産んで人生が詰む」。
そういう言葉も現実に耳にします。
いや、つらいと口にしてくれたらまだどうにかなるんじゃないかな。
そこまで思う重度障害者の穂花。
U容疑者と同じ思いのまま本人を介護せざるを得ない家族は、
そのじつ幾らでもいるでしょう。
ネガティブな感情を大っぴらに口に出せないタブー感がさらに、
障害者に関わるみんなの心を余計に追い詰めていく気がします。
…つらい時にはつらいと口にできればまだマシなのに。
穂花は障害当事者としてしょっちゅう感じています。
――家族と障害者自身の関わりについて。
具体的な例を敢えてお示しします。
穂花には二人の姉と姉の子どもである姪っ子が四人ありますが。
姉どもとはいずれにせよ心理的な諍いがある穂花だから、
もうずっと会っていないのはいいとしても。
姪っ子たちとも二十年以上会ってはいません。
彼女らのほんのちっちゃい頃しか穂花は知りません…
周囲から穂花は幾度となくこう言われました。
…全員女の子だし、将来結婚相手が見つからないと困るから。
それくらいあんただってわかるでしょ。
あんたの姿なんか見せちゃだめよ。
そして。
重度の障害を持つ穂花は「いないこと」になりました…
…こんなの珍しくないでしょう、きっと。
社会の本音ってそういうものですから。
もう怒る気も失せるくらい本音であり、考えようによっては「正論」。
きょうだいはじめ、家族への影響が懸念されるから。
つまり、家族までが差別され世の中から非難や批判を受ける虞が高いから。
結果…日常生活が脅かされる社会だから。
あんなに凄惨な事件の全容だったにも拘らず、
被害者の方々は実名報道されなかった…できなかったのですから。
この一年間考えて穂花なりに導いた答え、つーか仮説。
「誰の心にもU容疑者は住んでいる」。
だからといって、極めて残忍な凶行を許すことは断じてできません。
どのような理由があるにせよ、
自分の価値観で他者の生命を奪うのは赦されてはならないことです。
でも、それでも…
私たちのなかに間違いなく残虐な想いは存在します。
そして、自分よりも不幸そうな人、能力的に劣りそうな相手を、
見さげてバカにする行為によって。
私たち人間が自分たちの弱い心を誤魔化してやり過ごすこともまた、
現実であり世の常。
インフラ整備をし、公費をつぎ込むことによって。
物理的なバリアフリーは改善できるし、経済的な支援も予算さえあれば賄えます。
それでも、人間の心はどうしようもありません。
表面は繕えたとしても隠された本心を真に改めるなんて…
ほんとうは永遠に出来ないとさえ思います。
障害を持つ穂花が、穂花自身を「自分なんかいなくてもいい」と、
差別してやり過ごすのが現実だからです。
もしも穂花に何か出来ることがあるなら。
今思うのは…敢えて車椅子のまま街へ、社会に出ていくことくらいでしょうか。
自分の現状を皆さんに見て、知っていただくために。
がんばっているね、と思う人もいるでしょう。
一方で「キモい、近くによってこないで」と思う方もあるのでしょう。
穂花としてはもうどっちでもいいよ、って気がします。
感覚的なことに正解なんてないから。
好意的に見てもらえるにせよ、拒絶反応を示されるにせよ。
障害者って本当はどんなものなのか。
まずは多くの人に見て知っていただくことについては非常に意義があると思います。
さらに…障害のある人を間近に見て。
どう感じたかあらゆる場所で話し合ってもらえたらいいかな、
気持ち悪かった、怖かったって本音でも構わないから。
――障害者は「いないこと」になっている社会の在りようが。
本当のところ一番いけないのかも知れません。
犯行を赦すわけではありません、
ましてや肯定なんて絶対にあり得ません…それでも。
穂花のなかにも、あなたの心にも、
U容疑者は間違いなく棲みついています。
一年前の今日、たまたま顔を出して凶行に及んだのです。
亡くなった十九名の方を含め、
障害者はやまゆり園のような山奥でなくても何気に。
…社会に存在しない存在、地域には住んでいないマイノリティー。
「見えない存在」になってしまっています。
この「社会には存在しない」私たち障害者であることが。
悲惨すぎる事件を巻き起こした原因だろうと。
今のところ穂花が辿り着いた答えはそれしかありません。
十九名の犠牲者の皆様のご冥福をお祈りするとともに、
関係者の皆様の一日も早いご回復と心の癒しとを、
憶えてお祈りいたします。
前田穂花
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- 生きる意味, 真面目な性と生のはなし, 障害者