よく「同じ人間同士、きっとわかりあえる」といわれるけれど。

穂花は心が冷たいのかな。「そんな都合いいもん、ゼッテーねぇよ」って。
胸の奥で舌を突き出してる。

他人が自分の思い通りに動いてくれた時のみ都合よく、
相手と「わかり合えた」と感じるのが人間の性質。

例え幾らそれが正論であっても、
相手が自分の願い通りの言動をしなければもうそこでブチ切れる。
所詮はそんなところです、人間なんて。

似たようなものに「愛」が挙げられるでしょう。

私たちは子どもの時から愛はこの世で一番尊いと教わってきた。
愛とは寛容でありいずれの人間をも傷つけず、
永遠に不変の存在だと刷り込まれて成長した。

だけど、心の視力をよく保って見渡すと。

多くの人は愛という目に見えない「空気」にがんじがらめにされ、
苦しんでいる実態があると気づかされたよ。

しかも、愛はこの世で最も美しい概念だと修飾されがちだから、
私たちが感じる苦痛はなおさら強い。

愛のために無駄な争いも起こる。
無駄に思われる争いや諍いも「愛や正義を守るため」だと理由づけられる。

愛や正義、そこに連なる権利や平和を守るという理由で起きる戦争で、
そのじつ多くの人が大切な生命を失っている。

わかり合えない人間同士。
最小単位の人間関係である「家族」のなかでも、
愛を謳ってわかり合える概念をみんな声高に提唱しがちだけど。

血が繋がってるからってイコールわかり合えたりはしねぇんだよ!

母親は我が子を愛する、とか。
子は親に報いる、とか。

夫婦は永遠の愛で結び合うとか言葉にしなくても心は通い合うとか…

何だか一種の宗教みたいだよ。
傍から見るとちゃんちゃらおかしくて下らないのに、当事者は真面になってる。

誰もが見えない空気みたいな概念に縛られて。

本来苦しまなくてもいい部分まで、
ありもしない美徳や通念のために苦しめられてる…
穂花も然りね。

この世界に漂うファジーな概念なんていっそまとめて手放したいな。

根拠もなく「正しい」とされがちな概念なんかのために、
なんで人間は必要以上に苦しんで生きなきゃいけないんだろうな。

このどうしようもない問いに対し、
五十歳になっても未だ正解が出せない穂花は頻繁にイラついてしまう。

前田 穂花