前田 穂花です。
3月16日、U被告への判決が言い渡されるのを受けて、
私自身がやまゆり園入所の(一応)待機者ということで。
予てより拙宅にも「重度障害当事者として、
またいつか順番が来たら実際に入所される予定者として、
明日の判決やU被告、事件についてどうお考えでしょうか?」みたいな…
マスコミからインタビューや取材の電話がいくつか来ていました。
事件が内容的に余りに重たく、本当のところ正解がない気もするので…
私の立場として、判決後の今も全て回答をお断りさせていただいています。
個人的には障害当事者のひとりとして、
U被告が極刑に処せられることは当然かと思いますが…
ここについても非常にセンシティブな問題であることと。
例えU被告がその生命を以て「償った」としても、
現実には何一つ償われず、ただもやもやした悪い感情が残るだけだということ。
障害者への偏見や差別はU被告に対する死刑判決や執行を以てしても、
解決の糸口すら見えないところに、
私は何より怒りや深い絶望ややりきれない想いを拗らせるばかりです。
だから何もお答えできないと思ってしまうのです。
例え「前田穂花としての持論です」と前置きした上で、
誠意を以てお答えしたとしても。
言葉が独り歩きしたり、言葉が上滑りして軽くなったり。
個人的な私の言葉が障害者全体の考えとして曲解されたり…
これまでにも想いにもよらない解釈がなされて、
自分の言葉がほかの障害をお持ちの方を傷つけたり…
いろいろ悲しいことがありました。
私はそういうのはもう本当に嫌なのです。
人が他人の生命の価値を推し量る。
そんなことは絶対にあってはなりません。
しかしながら。現状この国においては。
特に兄妹の婚姻における差別など、
身内に障害者がいることで、本当に「不幸になる」ケースも残念ながらいっぱいあるのです。
我が家も私が重度の障害を負って生まれたことに端を発し、
やはり家族間でいろいろ揉めました。
子どもの就職や結婚を理由に、
世間体を慮る二人の実姉とは、私はもう何十年も会っていません…
そして、結局現在では事実上の一家崩壊状態に。
口惜しいですが、残念ながら現実はそんなもんです。
日本では障害を持って生まれることは不幸だとされます。
文化の問題で、障害当事者と家族が、
実際に不幸な目、不当な目に遭わされる場面も多くあります。
そういう背景も大きく影響してか、
綺麗事では語れないのが障害者にかかる問題なのです。
わが国には障害を負う理由とは「前世の祟り」であり、
宗教的な意味合いでの天罰だともみなされる文化が存在します。
そんなアンタッチャブルな障害者をめぐる問題には。
不可触な問題ゆえに、時に利権や思惑、見えない差別などが絡み、
さらにさらにいやらしく澱んでいくばかりに私には思えてしまいます。
綺麗事の理想だけでは障害者の問題はどうにもならないので…
この「どうにもならない」感じこそが、きっと…
我が国の闇であり、U被害者の心の闇だったのだと私は考えています。
いっぽうで。
障害当事者が、この問題について深く言及する姿も散見されます。
そんななか、無言を貫いている私に対して、
「前田穂花は狡い」という意見もたくさん頂戴しています。
私にも色々申し上げたいことはあるし、許せないと思う気持ちも当然あります。
同様に、障害者は要らない、
死ねという考えが社会に深く根付いていることに対する不安も…
それでも、今は自分の考えを言うべきではない。
…というのが私の導いた結論です。
今は一旦「保留」にしてはいますが、
自身も最重度の障害者だと判定されている私は。
実際にやまゆり園への入所を検討し、施設見学まで行いました。
入所手続きをすべく検討中という部分だけでも、
私はこの事件の当事者にかなり近い立ち位置にあります。
だからこそ、私一個人の考えがよくも悪くも「障害者全体の考え」だと、
曲解される危険は極めて高いかと思うわけです。
こんなに凄惨で許すまじ凶行に対し、
亡くなった方の生命を無にしないために。
もし…事件そのものや、十九名の尊い生命が奪われたことに対し、
それでも意義を問わなければならないとすれば。
事件を通じて、重い障害をお持ちの方々が、
社会から切り離された場所に「隠されて」いる現実や。
殺され傷つけられても報道の際や裁判においてその氏名すら出されない、
障害者は社会では「名前のない」存在であることを…
健常者がデフォルトの世間にバーン!と突きつけたという点。
※私は決して実名報道そのものを肯定するつもりはありません
物書きの端くれとしては、むしろ関係者を残酷なまでに晒し者にし、
世間の無責任な関心を煽るだけの実名報道には反対の立場です
しかし「障害があるから実名報道できない」という「理由」については、
強い違和感や不快感を覚えています
そして、事件が私たちの差別的な真っ黒な部分も含めて。
はじめて「重度障害者の生命の重さ」という問題を、
私たちが真摯に考えるための、
きっかけになったというところでしょう。
このむごい事件に意味や目的を、
敢えて持たせる、持たせなければならない…のであれば。
それは今まで触れてこなかった障害者問題の本質を、
私たちが「自分の問題」として考えるきっかけになったことでしょう。
被害者の傷みを理解するには。
見ないように、触れないようにしてきた障害者の問題について、
考えるということしか救いも償いも許しもなく、
そして、各々の内心の問題である以上、私は「正解」もないように感じます。
ただ…考え続けること、風化させないこと。
それだけでしょう。
障害を持つ私自身も、自分と違うものを差別し、
偏見の目で見、自分は「こんなんじゃなくってまだマシだった」とか…
思ってしまう場面が往々にしてあるのが事実です。
そんな、自分のなかの原罪に一生涯向き合い、
私は「私の中に住んでいるU被告」と対峙しつつ生きなければと思っています。
亡くなった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
前田 穂花