穂花は常々思う、
ありきたりだけど子どもはみんなの宝物だよ。
誰かの所有物であるわけではなく、
子どもひとりひとりの存在が社会の光であり、
そういう考え方を主張しても笑われないような世の中の実現を、
子どもがいない穂花だからこそ切に希うよ。
今は皇后になられた美智子さまが、
現在の皇太子殿下を出産された時こう詠んでおられたよ。
あづかれる宝にも似てあるときは
吾子(あこ)ながらかひな畏れつつ抱く
穂花は別に皇室には興味も何もないんだけど。
ただ、こういう感覚はとても大事だと強く思うんだよ。
今は(昔もそうだったかもしれないけど)ともすれば、
子どもは親の名誉欲を満たす道具になりがち。
子どもは親の所有物じゃない。
ましてやアクセサリーなんかじゃないのに。
子ども(人間)はそれぞれの人格を有し、
ただ幸せを享受するためだけに生まれるもの。
それなのに…大抵の親はそこを履き違えて、
あなたのためという大義名分を持って子どもを支配しがち。
それで。
期待していた子どもが親の意思に沿わないとわかった途端。
ひどい言葉を以て罵倒したり虐待したり。
または生まれてきた子どもに予想外の障害が見つかった場合、
こんな子、産むんじゃなかったみたいなことになったり。
どうせ、この子は何にもわかんないから、
何を言っても大丈夫だよね、
バカなんだから…。
そういう親(おとな)の想いって。
どんな障害があろうとも子どもには全て伝わるものだよ。
よく街中でパニックになる障害児者を見かけるけど。
あれは…ひとえに騒ぐことによって親の関心を惹きたいんだよ。
心配してもらいたい、かまってもらいたい。
そういうことは健常児といわれる子どもにだってよく見られる現象。
心配されること、
わざと悪いことをして叱られることですら子どもにとっては、
親が自分に目を向けてくれている証拠=親から愛されていることについての確認。
頻繁に軽傷の病気やら軽い怪我をしがちな子どもだってそうでしょう。
子ども自身が病んでいる時には親も、
ストレートに自分を愛してくれていると…
子どもは改めて確認できるのだから。
それくらい子どもは親の愛に飢えているもの。
*構図としては悪くないんだけど、しばしば穂花ちゃんの…なおみ足が映り込んでしまうところがポイント
だけど、子どもがお腹にいる時はただ、
無事に生まれてくれればそれでいいんだよと謙虚に祈るばかりの親が。
子どもが生まれた途端、
謙虚だった親は自己欲の塊に変貌、
子どもは親自身の虚栄心を満たす道具に。
…そういうことじゃなくて。
子どもは自分の我が子かもしれないけれども同様に、
社会から、或いは人知を超えたところから預かった宝物であり。
自分の意のままに扱える存在じゃないんだよという、
畏怖の念にも似た心持で過ごせれば理想かなって思うよ。
まあ、現実のところ穂花には子どもがいないから…
あんたはどういう綺麗事でも言えるんだよって、
そう指摘されればそれまでだけどね。
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明けまして、おめでとうございます。
いつもコメントありがとうございます。
子供についての記事拝見させていただきました。
決して間違ってはいないと思います。
全ての人がそうではないと思いますが、記事に書かれた形に思っている方もおられると思います。
特に障害を持って生まれたのお子様のお気持ち。お心がこもっておりました。
参考になる記事をありがとうございます。
本年も、どうぞ、よろしくお願いします。
高野大輔様
こちらこそいつもありがとうございます。
穂花です。
コメントありがとうございます。
まあ、私が何を申し上げたところで所詮は「子ナシ女」(この表現もかなり差別的ですが、流行りだそうですので敢えて使用…)である、
前田穂花の「負け犬の遠吠え」でしかないでしょう。
あくまでも私の持論として読んでいただいて、こういうふうに思う奴もいるんだなあと、
読者の皆様には参考意見のひとつと捉えていただけると幸甚です。
そのうえで。
私が一番大切だと思うことを述べます。
それは「子どもを産む選択をしなかった」女性や男性も、「子どもを産んだ女性」について考え続けること。
自分自身の問題として受け止めること。
お母さんになった女性の存在を「忘れない」こと。
保育園の建設反対の問題。
ベビーカーを電車に持ち込んでのトラブル。
あるいはマタニティーマークを付けたプレママへの嫌がらせやマタハラの問題。
子どもを産む人生を選択した時点で女性は自身のキャリアを事実上捨てるしかない現実。
これらの全ての問題の根っこは、
お母さんになった女性の抱える様々な問題を、子どもを産まなかった女性や男性が、
別の世界の問題だとしか捉えていないからだと私は思います。
あるいは、自分には関係ないからと…
真摯に向き合うことをしないから。
こういう「シカト」するかたちが。
子どもの問題を見えにくくさせてしまい、結果虐待などにも繋がるんじゃないのかなあと。
高みの見物ながらも私は危惧し続けています。
私のような子どもを産まなかった女性。
あるいは男性やそもそも結婚という選択すら選ばない人も。
その生き方を保障され、生き様を保障され続けて自由であるために。
いろんな意見があってもいいと思います。
いろんな立ち位置からの意見だってアリだと思います。
正解を求めるということではなく、子育てを自分自身の問題として考え続けることは。
自分の人生を承認してもらうためにも今後必要なのではないか。
産むことが出来なかった自分が未来に何を遺していけるのか。
そういう課題に向き合うなかで、
子育ての問題を自分の問題としてとらえ続けることは意義深いだろうと私はつぶさに感じるようになりました。
穂花