…世間の皆様は私という人間をどう捉えられるかわかりませんが。
これまで私はただひたすらがんばってきました。
決して恵まれた環境にあったとは言い難い中で、
私はその時々に応じて出来得る限りのことはがんばってきました。
がんばったけれども目に見えるような結果は出せませんでしたが…。
ただ、精一杯がんばったんだって想いだけは残ったので、
次に繋げて生きてはいけそうです。
もしもテキトーに生きてきたとしたなら、
ここまで苦しんだりもしなかったのでしょうが、
ただ、こういう人生の段階に差し掛かった時に、
私はひどく後悔の念に駆られて、それこそ死にたくなったと思います。
それだけはないのでまあよかったと思うばかりです。
私に限らず、努力が実を結ばない人生を強いられる人は幾らでもいます。
例えばがんばったにもかかわらず受験や就活に失敗するとか…。
がんばってもダメだったことには当然原因があります、
自分より優れた人間が存在したのです。
ですが、それはそれで事実として受け止めるんだとしても、
努力したその人の人生のプロセスが無意味だったわけでは当然なく、
ましてやその人が価値のない人間だったという判定を受けたわけでもありません。
ただ、たまたま自分より優れた人がいただけです。
ともすれば人生はみんなに称賛されるような結果を導くことだけが、
目的の全てのように思われがちですが私は違うと主張したい。
みんな同じ、なんてことは生きる上では起こり得ません。
見た目の勝者もあれば敗者もこの世に存在しますが、
だからこそ面白いのだし、ダメであれば次を探せばいいんだと思うだけです。
実際には人生をやり直すにはものすごくエネルギーを必要としますが、
もうリベンジなんて出来ない、と思うから惨めになるのです。
過ぎたことは仕方ないとしても生きている限り未来は常にあります。
考え方ひとつで死ぬ瞬間まで成長出来ます。
時に私も、
正直泣きたくなるほど失意の底に突き落とされる経験もしましたが、
それでも終わってしまったわけではない。
絶望の淵に在る時。
私は次のように思ってやり過ごします。
…目を覚まそう。
「私」という存在は自身を常に過大評価し、
傲慢になっているんだ…とまずは識ろう、気付こうと。
例え、車椅子に乗っていても。
自閉症その他の障害を負っていても。
私は「普通に」何でもこなせて…。
他者の力を借りない自分こそが、
私という存在のいわば「完成形」だと信じて生きてきました。
…そうでも思わないと生きて来られませんでした。
しかし。
別の立ち位置から私という存在を鑑みると。
今まで障害があっても何でも自分でこなせるんだと思い続けて生きてきた私は、
考えようによっては傲慢でした。
悩み、挫折し、病を患い…。
自然の摂理に基づいて年老いて、
次第に衰弱し、確実に死へと前進する「私」という存在。
これから先、弱ればいろいろな面で他者の力を借りなければ生きられない自分。
他者を助けるのより他者から助けてもらうほうがずっと難しいものです。
そんな過ちにも気づけない日々の中。
卑屈にはならず、だけど我儘を主張せず、
感謝を以て日々をどう自分らしく生き抜くか。
今後はその辺りを真摯に考えていきたいです。
ここでは詳細を割愛しますが、
私はこれまでの人生において、重篤な病気を幾つも体験し、
長短合わせて50回近い入退院を繰り返しています。
手術を受けたり集中治療室での治療を余儀なくされるたびに、
私は死、というものをリアルにイメージせざるを得ませんでした。
だから、今こうして皆さんに自分の言葉で気持ちを伝えていることも、
本当はものすごい偶然であり奇跡的なことだろうと私は感じています。
私にとっての「おまけの人生」は、
それこそ私が皆さんに対して本当に申し上げたかったことを、
伝えていく時間に充てたいのです。
生きている限り、やってみたいことはいっぱいあり、
希望は常に私の中にあります。
生きている上で一番悪いことは、
私なんてどうせダメなんだと自分を否定すること。
一見謙遜のようですが、実はものすごく傲慢だと思うのです。
「自分」は自分の意思では生まれては来られないのだし、
生きていく上では…本当にたくさんの人の想いが込められ、
託され、載せられてきた自分の人生なのだから。
前田穂花