前田穂花です。
正直に言うと「愛」という言葉は穂花が大っ嫌いなものの代表格。
だけど、今日7月26日はものすごく悲しい出来事、世の中を震撼させる事件が起きた日であって。
しかも皆さん「喉元過ぎればなんとやら」状態で、
今年も例の7月26日が来たから思い出す…的な感覚だからこそ。
敢えて穂花自身が嫌いな「愛」という言葉や、付随する「可愛い」という言葉を引用しつつ。
穂花なりに相模原の事件や人間の尊厳について考え直したいと思います。
※2019年7月30日追記:
blog読者の皆様に「津久井やまゆり園」がいったいどのような立地に位置していたかということを考えて戴き、
併せて、それがこの社会の障害者施策についてどう意味するのか思いを馳せて戴きたく、
私、前田穂花自身が撮影してきたやまゆり園界隈の写真をこのトピックにアップさせていただきます。
アニメ「苺ましまろ」から生まれた有名な台詞。
カワイイは正義、という言葉って…もう使い古された感も否めないけれども。
可愛いってそれこそ、
文字通り「愛されることが可能な状態」を示すんだよ。
別に小さい子どもや女の子だけが愛される対象とは限らず、
可愛くなければ「愛されるに値しない」のではなく。
本当なら生きている誰もが愛されるに値する、
「可愛い存在」じゃなければならないでしょ。
あなたも考えてみて。
例えば「好きな人」の存在が穂花にとって本当にかわいい。
愛はまるで等価交換の道具みたいに利用されがちだけど。
ニコニコしてる「好きな人」を見てるだけで、
すでに愛に必要な諸々は全て戴いた穂花だと思うよ。
好きな人がニコニコしてるその表情を見てると幸せな気分になるよ。
もうそれだけでいいじゃん。
…穂花は思うの。
カワイイの本質ってそこにあるんだよね、きっと。
言葉を持たない赤ちゃんや子ども、
穂花よりもさらに重いハンディキャップを負って生まれ、
言語による意思の疎通が難しい方であっても。
養育される保護者や介護される方が、
その確かな変化や成長を感じる場面は往々にしてあると訊きます。
そういう想いを踏まえつつ三年前の今日の「凶行」を思い出す時。
相模原の事件の犠牲になられた十九名の方々は、
本当に「愛されるに値する」処遇を保障されていたのか。
本当は家族とおうちにいたい、生まれた街で当たり前に過ごしていたい…
そういう願いがあったかもしれない、あったはずなのに。
人間として当たり前の願いを、しかし一度でも叶えてもらえたことがあるのか。
さらには。
凄惨な事件を起こしたU容疑者は、
一度でも正しく自分が「愛されている」という実感を得られた経験があったのか。
やまゆり園の事件を想い起こすと、被害者の方々の傷みを慮ると同時に。
加害者を擁護し得る余地は全くないにせよ、
U容疑者が人間らしい感情を学び取れるような機会が保障されたのか?
そう感じて心が堪らなく痛くなります。
穂花は個人的にこう思います。
恐らく。
愛とは生まれつき、人間に備わった能力なんかじゃ決してありません。
誰かに愛されるという経験を通じて、
人としての学習を通して会得し得る能力の一つが愛です。
言い換えれば「人として大事にされる」経験を通じて、
誰かを大切にする能力や、人間らしい感情の機微をも養われていくのだと感じています。
U容疑者はかつて「自分が担当している障害者は本当に可愛い」。
そうやまゆり園の会報に寄稿していました。
※ライターである私は実際の会報の現物を取材の場で見たこともあります
だからこそね。
穂花は「可愛い」って本当は何だろうって思うし…
愛される価値がなければ人として尊ばれないのか、そんな疑念が湧き起こるし。
穂花は何度も自身の胸に問いかけてしまうし。
もしかしたら…可愛いと見做される言質としての、
人として愛される条件≒社会における生産性…なのか??
自分自身が重度障害者だからこそ、そう疑う穂花もいることは否定できないんだよ。
穂花は「穂花の心」のなかに棲みついているU容疑者に、本当は日々問いかけ続けている。
障害当事者である穂花もまた、人を区別し、差別しまくって。
自分の生活の安寧を推し量りつつ、びくびくと怯えて生きてるから。
一点だけ、ここは確かだと思うの。
生命を維持するに必要なケアこそきちんと保障されてはいたものの、
十九名の被害者の方々は「社会になかった」存在。
本来なら住んでいるはずの街に…
社会に「いなかった」ことになっていた人たち。
敢えてイヤな言い方をさせてね。
そういう意味合いで彼らは、
社会にとって「可愛く」なかった、必要とされてはいなかった、
世の中から正しく愛されてはいなかった存在。
そして。
あの日凶刃を振るい、十九名の尊い生命を奪ったU容疑者もまた同様に、
社会には「愛されてはいなかった」存在。
きっとU容疑者も…
いつの間にか社会に「いないことになっていた」んだろうな。
本当のところ、穂花にはそんなふうに思えてならない。
凶刃に生命を落とされた十九名の被害者の皆様も、
U容疑者も…そして穂花も。
そのじつこの社会には「いない」設定の人がいっぱい隠されている、
…そんな疑いを払拭出来ない穂花なんだよ。
もしかしたら…あなただって明日は。
この事件の本当の怖さはここに隠れているのかもしれない。
前田 穂花
※追記:
相模原事件から三年が経過したということで。
私は幾つかのメディアに取材について打診を受け、
他、穂花としてインタビュー等の申入れを頂戴いたしてはおりました。
しかしながら私自身が予てより体調不良であったこと、その他個人的な理由で、
今年は全てお断りとさせていただきました。
関係各位に対し、この場を借りて改めてお詫び申し上げます。